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殺陣の上達心得

このページは「玄舟塾殺陣教室」会報の連載「上達一口メモ」をまとめたものです。 特に、殺陣も武道も、ましてや運動すらやったことのない「超初心者」の方を対象にしています。これをご覧になっている「殺陣をやってみたい!」という方の参考になれば幸いです。 内容は殺陣を稽古するに当たっての心構えが中心になっていますので、技や動作の専門的な説明は「Web 殺陣教室」を参照してください。

連載が進むたびに更新いたしますのでお楽しみに!  

1. 技を盗め!
2. 型にはまる
3. ギャップ


バックナンバーはこちら [1][2]   


技を盗め!


マニュアル時代

最近、上級の生徒達に度々言われる台詞に「(やり方、コツを)聞いていないので出来ません!」というものがあります。現代は「マニュアル時代」とも呼ばれ、とにかく説明することが求められます。時には、ジュースの紙パックに「真ん中を持つとジュースが飛び出ます」とまで書いてあったりして、唖然とさせられることも度々です。まあ、多少行き過ぎの感はあったとしても、この「マニュアル化」・「説明責任の重要化」は、私達が安全に、かつ快適に社会生活をおくるためには必要不可欠な「時代の要請」なのでしょう。

試行錯誤の必要性

しかし、そんな中で育った彼等が当たり前のように「知る権利」を主張している姿からは、どうしても「違和感」を感じざるを得ないのです。もちろん、私も「説明する責任」の重要性は十二分に承知していますし、ましてや高い授業料をいただいているのですから彼等に説明をする事に関しては「やぶさか」ではありません(もともと、説明する事は嫌いではないですし)。しかし、「何もかも教えてもらう」つもりの彼等からには「主体性」、言い換えると「大人」といったものが全く感じられないのです。これは例えですが、数学の問題集を解く時にいつも「答え」を先に見ていては「勉強になりません」よね。私の高校時代の数学の先生が、「答えを導く<過程>を見抜く力」を養う事こそが、数学を学ぶ意義である、というようなことをおっしゃっていました。当時は「何、呪文みたいなこと言ってんだろう?この先生・・」と意に介さなかったのですが、今になってその言葉の本質がようやく分かってきました。それは、芸事を学ぶ上での一番の目的「上達の過程を導き出す(見抜く)力を養うこと」と同じ事だったのです。それが何故必要なのかというと、「物事が成り立つ仕組み、過程を見抜く力」が無いと、人生を「主体的に、自分の意志に則って生きられない」、別の言い方をすると「他人の言いなりにしか生きられない」ことになるからです。

師弟関係の面白さ

昔は「技は盗むもの」と言われて来ました。つまり、昔の人たちは、師匠(先輩)の技を「ただひたすら見る(観る)」ことによって、その技に潜む本質(心と、微妙な呼吸・身体の使い方等)を見極め、あるいは「予測」して、そこに辿り着くための「課題(稽古方法)」を自ら導きだし、実践していたのです。かく言う私も、太極拳を武道として習いはじめた十数年前、師匠から直々に言われたものです。曰く、「お前には何も教えない。見て覚えろ。」と。今の人なら訴訟でも起こしかねない(笑)乱暴な言葉でしたが、その時の僕はとても「ハッスル」したことを今でも良く覚えています。それ以来、必死に師匠の姿を見つめる日々が続きました。それは稽古中だけの事ではありません。何気なく前を歩いていらっしゃる師匠の歩く姿、一緒に食事をしている時の師匠の「箸の上げ下げ」まで、それらを食らい付くように見つめ続けました。そうして、一人で稽古する時は、師匠の技・師匠の立ち姿に辿り着くための「過程」を幾通りも「予測」し、それに向けての「課題(稽古方法)」をこれまた幾つも「考案」して、その一つ一つを丹念に反復していったのでした。皆さんも御承知の通り、技というものはそんなに早くは身に付いてくれません。考案した、ある一つの「課題」をしっかりと身に付けるのには、早くても三ヶ月、遅いものになると半年以上もの月日が掛かってしまいました。そうして苦労して身に付けた技も、師匠の「それは違う」の一言で無惨に一蹴されてしまうのが殆どでしたが(苦笑)。それでも八年程過ぎた辺りからでしょうか、百回に一度位は「それで良い」と言われることが起こり出したのです!その時の気持ちは、まさに師匠から「一本取ったり!」といった、晴れやかなものでした!!

太極拳は皆同じ「型」を練習するわけですが、外見が同じに見えても人それぞれ「気の通り」、「意識の通り」が違うのです。ここで私が見抜こうとしていたものは、正に師匠の「気と意識の通り」なのです。



こういう意味ではないと思う・・


「盗む」ことは一つの「技」だ!

いかがでしょう、この「師弟関係」は?皆さんからすると「なんて壮大な時間の無駄使いだろう!」と感じられるかもしれませんし、また「上達の過程の<予測>が間違っていた場合の、それまでの苦労にいたっては、無駄を通り越して悲劇ではないか?」という声も聞こえて来そうです。ですが、私から言わせてもらうと、なにより苦労をして身に付けた技は「おいそれとは崩れない」ですし、間違っことを身に付けたとしても、それが間違いと分かってしまえば、逆にそれ以後は間違いに陥る確率が格段に低くなるものなのです(身体が学習していますから)。それよりも何よりも、「物事(私の場合は特に<運動>)がどのような仕組みで成り立っているか」を「見抜く目」を養ってもらえた事、これは何事にも替え難い私の「財産」になっていますし、きっとそれは最初から答えを提示されていたら絶対に養えなかった事だと思います。やる気の無い指導者が怠けるために「技は盗むものだ!」と安易に主張することはもちろん許されませんし、私自身古臭い師弟関係を皆さんに押し付けるつもりも毛頭ありませんが、「技を盗む」という構造(仕組み)の中には、人として充分な成長を遂げさせてくれる「秘密」があることも知っておいてもらいたいのです。そして、それを実践して行くならば、きっとライフスタイルそのものが「豊か」になることでしょう!


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型にはまる


型の持つ意味

最近の社会の風潮は「自由」や「自主性」を重んずる傾向が強いようです。そのような中で育ってきた皆さんからは、形式的なことに囚われること、そしてそれを押しつけられる事に対して強い拒否感を持っているように感じられます。誰しも、「型にはまる」ことは、窮屈で嫌に違いありません。かくいう私も、子供の頃から型にはめられるのが大嫌いでした。お陰で、大人になってもこのような仕事をしているのですが(笑)、こと運動に関しては、「型にはまる」ことが大・大・大好きなのです。皆さんもご存じのように、私は長い間、太極拳を始めとする中国武術を修行してきました。中国武術の修行方法といえば、映画などでもお馴染みの「型」を中心とするものです。まあ、どのような流派の型を学ぶにしても、最初は本当に窮屈なものです。例えるならば、何か筒状の物を上から被されて、身体をがんじがらめにされたような気がします。「こんなんで、本当に強くなれるのかいな?」という疑問が絶えず頭をよぎりますが、しかし、辛抱強く練習を続けていると、薄紙をはがすように事の本質が観えるようになって来るものです。強張っていた身体が少しずつほぐれて、今まで使っていなかった筋肉達が動かせるようになって来ます。これまで適当にやっていた重心移動などが明確に意識され、技の一つ一つに、ある種の「力の流れ」が隠されていることに気づきます。ここまで来ればあとは「芋づる式」です。筋肉は、どんどん身体の内側のものを使えるようになり、「力の流れ」は、淀みなく、より洗練されたものへと変化を遂げます。型を学ぶ前の自分では到底成し得ない「素早い身のこなし」、「変幻自在な動き」が可能に成るわけです。ここでようやく学習者は気付きます。つまり型とは、名人・達人が辿り着いた高い境地を、後学の者になんとか伝えようと考えだされたものなのなのだと。現代のような通信手段を使わずに、しかも時空を越えた古の達人達と身体一つをもって語り合える、それが「型」なのです。



玄舟塾「抜刀の型」


天才に「型」は不要か?

いつの時代にも「天才」と呼ばれる人はいます。自分独自の工夫で歴史に残る新境地を開いた人達です。芸術、科学、スポーツ、どの分野においても天才と呼ばれる人達は、独創的かつ革新的な方法論で世間をあっと言わせてきました。このことを根拠に、現代人は「自由」と「自主性」を大切に考えているのでしょう。もちろん、この考え方には一理あります。しかし、一つ見落としている点があると思うのです。それは、天才と呼ばれる人達こそ、誰よりも「基礎(これを型と呼んで良いのか分かりませんが)」を積んできているという事実です。ピカソ然り、モーツァルト然りです。おそらく科学者もそうなのではないでしょうか?人類が膨大な時間を掛けて積み上げてきた基礎研究を全く無視し、全てを一代で築き直して、尚かつその上に独自の発明・発見を加えるなどとは到底不可能なことだからです。

「守・破・離」

「型にはまること」と「自由」とは、バランス良く配合されてこそ最大の効果を上げるものだと思います。このことを、我々の祖先達はよく見抜いていました。「守・破・離(しゅ・は・り)」という言葉があります。物事の上達過程を端的に言い表している言葉で、最初の「守」でその分野の基礎をしっかりと身に付け、次の「破」では、他の分野などからも積極的に学び新たな展開を模索します。最後の「離」においてようやく独自の境地を確立するというものです。身近に接する若者達の中には、「守」の状態にも成っていないのに色々な所を渡り歩く人を多く見かけます。本人は「破」のつもりなのでしょうが、確固たる「守」抜きには「破」はあり得ないものなのです。また、我が玄舟塾においても、入会して1〜2回で来なくなってしまう人があまりにも多すぎます。そのような人達を見ていると、「あ〜、勿体ないな〜。」と思えて仕方がありません。確かに「守」は地味で詰まらなくキツイものなのですが、それを経ないことには「離」など夢のまた夢ということになってしまいます。

真の自由のために

「自分らしくありたい(動きたい)」と願うことと、「型にはまる」ということは少しも矛盾しないのです。それどころか「真の自由」を手に入れる最強のアイテムにも成り得るのです(型を創る人の力量にもよりますが)。そのことを胸に刻んで、どうか、稽古に励んで下さい。


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ギャップ


今回のお題は「ギャップ」。といってもカジュアル衣料品店のことではありません。俗に「世代間のギャップ」とか言う、あれのことですね。・・ということは、今回も「オヤジの愚痴」になるであろうことは必至(笑)。さ〜、張り切って愚痴るゾ〜!

E 老師の憂鬱

少し前の話で恐縮ですが、映画「カンフー・ハッスル」の宣伝番組が、格闘技好きのお笑いタレント S 氏を司会に深夜枠で放送されていました。功夫各流派の老師達をゲストに迎え、「ありえね〜技(苦笑)」を披露してもらおうという企画だったのですが、最初に登場された老師を見てびっくり仰天、なんと名門 K 派の E 老師ではないですか!その E 老師、番組の趣旨と協演する他の老師達に敬意を表されたのでしょう、のっけから、おそらく K 派の中でも奥伝に属するであろう鮮やかな気功法(推測)を見せてくれたのでした。いやね、今はお金さえ出せばどんな情報でも手に入る時代ですが、こういった修行の世界はまだまだ秘密主義、っていうか絶対にそれでなくてはいけない!と僕は思うのですが、そんな状況の中で、これだけの「本物の技」を見られるという機会はなかなか無いのですよ、これホント。僕なんかテレビの画面に向かって「いや〜眼福、眼福!」って、手を摺り合わせていましたもん(これもホント)。・・ところがですたい。あの司会の奴ら、「え?それで?」ってな具合の不思議顔(工藤静香かっての!)。僕のいや〜な予感は徐々に的中していき、次に老師が披露した K 派独特の練功法、これはかなり難易度が高くて肉体的にもハードなものなのですが、それをタレント S がいじるいじる!もう、その後は延々と見るに堪えない馬鹿騒ぎが続き、 E 老師は、日本芸能界の地獄の鬼にも劣らぬお下劣っぷりを思い知らされてスタジオを去ったのでした。その後も番組は続いたのですが、まあ、およそ正当派功夫の鍛錬法とは思われない「お互い目隠しをして闘う」なんていう際物に「ありえね〜!!」の連発。司会者一同、堂々その○呆っぷりを示してくれましたとさ。

若手アクション俳優 K 君の無知

これまた、だいぶ前に遡るのですが、ある筋肉系番組の企画で、若手アクション俳優 K 氏が本場少林寺で少林拳を修行するというものがありました。数週間嵩山の麓(ふもと)の武術学校で修行、それ自体は真面目で好感が持てたのですが、それから、さあ!いざ少林寺の高僧に拝謁するゾ!ってところで馬脚を現しちゃいましいた、彼。 遠く異国からはるばるその門を訪ねてきた若者に、高僧は精一杯の、おそらくは少林門の秘伝にも属するであろう、ある「型」を披露してくれたのです。それは映画などで知られる「剛」のイメージとは程遠い、柔らかな、まるで太極拳のような動きでしたが、武術を修行している者なら、一目で、その中にいくつもの「殺し技」が隠されていることに気付かされる、本物中の本物の型だったのです。もちろん僕は例の通り「眼福、眼福!(すりすり)」だった訳ですが、そのような技を、しかも目の前で演じてもらったのにもかかわらず、若手アクション俳優 K 君はいたって不思議顔。カメラに向かって小声で「踊りか何かですかね?」だって!もう、ホント、ぶっ飛びましたよ!あたしゃ。思わず「あたしゃスターシャ!」って叫ぶところでしたよ、ホントに(意味不明)。

こっちの世界

どんなに情報化が進んだところで、「体得」しなければ絶対に分かり得ない世界が厳然として存在します。「技・極意」の世界がそれです。例えば太極拳の技に、「相手に自分の掌を完全に触れておいてその状態から打撃を打つ」という「零勁」という技があります。これを初めて喰らった僕の生徒が、「これは超能力ですか!?」とのたもうていましたが(笑)、もちろん超能力などではなく、腰で発生させた勁(ちから)を背骨一個一個を経由させて掌に伝えるという純然たる技なのですが、このように、一見魔法のような技も空想などではなく実際に存在するのです。ですから、僕たちは常に謙虚であらねばなりません。そうでなければ、せっかく本物に出会えてもみすみすそれを見逃すことになるからです。つまらない自我は捨てなければいけません。自分の拙い経験など、深遠な極意の世界を前にしては塵ほどの意味も持たないのですから。先の「零勁」の話で言えば、「ふんふん、つまり力を抜いておいて一気に全身の筋肉を収縮させれば良いのだな」などと自分に都合の良い解釈を行うと、レベルの低い、無意味な、とは言い切れないけれど、明らかに本物の「零勁」とは「似て非なる」技が一つ出来上がるだけなのです。

こんな話をすると、僕の生徒達から決まって「知らないんですから仕方がないじゃないですか!」とか「頑張っているんだからそれで良いじゃないですか!」といった言葉を浴びせられます。が、逆に聞き返したいのだけれど、「そんな程度で自分を誤魔化しておいて、それで満足なの?」って思っちゃいます。技・極意の世界はホンっっとうに楽しい世界です。その世界に住む者は、武道家ならば、ただ動けばそれが技になり、舞踏家ならば、ただ動けばそれがダンスとなる。生きていること、ただそれ自体が修行となりかつ遊びとなる。こんな楽しい世界になんでみんな来ないんだろう?って、僕の方こそ不思議顔、ん〜、色っぽい!? さあ、みんなで遊んで暮らしましょうよ!こっちの世界には、ほんのあと一歩か二歩(意識のレベルで)踏み出せばいいだけなんですから。