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殺陣の上達心得

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殺陣の間合い


皆さんの中には「なんとか木刀を振るのは様になって来たけど、一緒に練習する仲間達からは、いつも「間合いが近すぎる」とか「遠すぎる」と、言われる」人はいませんか?
つまり「間合い音痴」の人です。そんな人に、とっておきの秘密をお教えしましょう。それは、「殺陣の間合いは社交ダンスの間合いと同じ」だということです。「ええ〜っ?!だって殺陣では手を繋いだりしないし、ましてやドレスも着ないじゃない?」と、驚くのは早トチリというものです(笑)。もちろん殺陣と社交ダンスではその運動に大きな違いがありますが、間合いの面では「お互いが協力し合って理想の間合いを創り出す」という点で一致するのです。

殺陣と格闘技の違い

殺陣の動きは見た目には相手を倒す動作、つまり「格闘動作」ですから、どうしてもその動作に惑わされてしまいがちです。なにしろ「振り下ろされる刀」や「唸りを挙げるパンチ」は、相手の身体に「めり込ませる」ものだという固定観念があるからです。しかし、殺陣における「刀」や「パンチ」はその「意識」においては、社交ダンスにおける「パートナーに優しく差し出される手」でなければならないのです。(もちろん実体の「技」は激しく、力強くなくてはいけません。)「パートナーに優しく差し出される手」とは、具体的にはどうゆうことか、格闘技と比較して説明しましょう。格闘技では、相手の有利な間合いを「潰す」ことが前提になっています。つまり相手の「嫌な所、受けにくい所」に向かって技を繰り出すのですが、殺陣では、相手が「望む所、受けやすい所」に向けて技を出します。このことからも、殺陣の間合いが「お互いが協力し合って理想の間合いを創り出す」ものだということをご理解いただけると思います。

激しく闘っていても意識はダンス!?


意識の技化

ですから、殺陣の稽古では「パートナーに優しく手を差し伸べる様な意識」で「猛烈な気合いを伴った激烈な技」を繰り出すのが正解なのです。では、どうやったらそれを身に付けることができるのでしょうか?
それはズバリ!基本稽古の段階からそのような「意識」で稽古をすることです。基本の段階から何十遍、何百遍とこの「意識」を繰り返して用いれば、自ずから「自分では何も意識していなくとも、理想の意識状態を体現できる」状態になります。つまり「殺陣の意識」が「技化(わざか)」する(身に付く)段階に至るのです。その段階になると間合いは自由自在に操れるようになります。実際に殺陣を演じている最中に、お互いの間合いと呼吸がピッタリと合った時の高揚感と満足感は例えようの無いものがあります。自分と相手が一体となって、まるで自分が相手に、相手が自分になったかのような錯覚さえ覚えるものです。みなさんもこの境地を目指して稽古に励んでください


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息してる?


平坦な「息」

玄舟塾に入会して二年も真面目に稽古を続ければ、殺陣におけるある程度の動きは身につけることができ、それなりに「立ち廻り」も演ずることが可能になります(このレベルを玄舟塾では「中級」と言います)。スピードもそこそこ付いていますから、素人さんから見れば「わ〜、カッコいい〜!」という評価も、貰えなくもないレベルになったと言えるでしょう。
ところが!です。これでは全くもって不完全なのです。特に私と南塚が演ずる見本と比べると明らかに「何か」が欠けているのです。では、その欠けている「何か」とは何かというと、ズバリ!「息(呼吸)」なのです。正確に言うと「息の仕方」ということになりますが、中級者達の「息の仕方」は余りにも「平坦(!)」なのです。

「息」の仕方

「息の仕方が平坦である」とはどういう意味でしょうか?「声が出ていない」ということとはちょっと違います。彼らは痩せても嗄れても中級ですから「技を掛けるときの気合い」や「やられた時のうめき声」はきちんと出せているのです。しかし、「その間」の呼吸がいたって平坦なのです。といっても激しい動きの中でのことですから多少荒くはなっていますが、私と南塚が見本を見せているときの呼吸とは雲泥の差があるのです。私と南塚が演武をする時には、本当にもの凄く多様な呼吸をしています。思い付くままに挙げるならば、「不意に相手に攻撃をされて思わず<息を呑む>」、「辛うじて相手の攻撃をかわしたときに自然と<息が漏れる>」、「自分が攻撃を仕掛けるために急激に<息を貯める>」、「相手との間合いを計る時にジッと<息を殺す>」等々まだまだ数え上げればきりがありませんが、つまりこれだけの呼吸を一つの立ち廻りの中に織り交ぜているからこそ、中級の彼らと比べて格段に内容が豊富な演武になっているのです。

宮崎アニメの「息」

「息(呼吸)が演武を豊かにする」と言われてもピンと来ない人の為に分かり易い例を示しましょう。それは「千と千尋の神隠し」でアカデミー賞を受賞した宮崎駿監督の作品中に非常に多く観られる事です。宮崎監督の描くキャラクター達は、皆一様に息をすることの達人ばかりです。大男達が殴り合う場面では、パンチを一発ぶち込む前に必ず胸一杯に息を吸い込みますし、もののけ姫の<アシタカ>が怒りに身を震わせる時などは、息を身体中に吸い込んで「ぐっ」と止めているのがわかります。また、ユーモラスなところでは<トトロ>が大きな声を出す前には胸が張り裂けんばかりに息を吸い込みますし、切ないところでは<千尋>がお父さんとお母さんを捜す場面で、大きく身体を前のめりにして叫んでいます(こうするとお腹に力が入って、より大きな声が出せるのです)。宮崎監督の描く動きにはもちろんアニメ的な誇張がありますが、その動きの奥にある「心と呼吸、身体と呼吸の本質」が見事に映し出されているのです。だからこそ、それを観ている私達もその本質を身体の奥で感じ取り、キャラクターに同化して、ワクワクドキドキしたり切なく悲しい気持ちになったりするのです。

ふんぬ〜〜〜!!
超弩級パンチが唸りを上げる!
ぶはあっーー!!
「息」が見る者の心を掴む!


「息」は「生き」

私達の先祖達は「生」と「息」に同じ訓を当てて「生き」・「息(いき)」とし、「生きる」とはすなわち「息(す)る」ことだと見抜きました。何を当たり前の事を言っているんだろう?と軽く見過ごさないでくださいね。この言葉には恐ろしいほどの「本質」が詰まっているのです。皆さんは「息の仕方」に上手い下手があると言うことはご存じでしょうか?息の仕方が上手い人というのは身体も丈夫で、精神的にも健康に生きて行かれます。そうでない人は全く逆の人生を歩まなくてはいけません。「より良く息する」と言うことは「より良く生きる」ことに繋がるのです。

「息(呼吸)」を盗め!

この考えに立って前述の中級者達を観てみますと、彼らの至らなさが良く分かって来ます。彼らは自分たちの息を「ないがしろ」にしているが故に、彼らの立ち廻りが「生きて」こないのです。「生き生き(息息)していない」のです!ここまでくれば皆さんにもお分かりですね。これからの稽古は「息をすること」にも注意を向けて稽古しなければなりません。具体的に言うと上手い人の「息(呼吸)」を先ず真似するのです。真似をして真似をして、自分なりの呼吸を掴むのです(これを「呼吸を盗む」といいます)!上手い人というのは別に道場の先生や先輩達でなくとも構いません。テレビや映画に登場する俳優さん達でも構わないのです。その俳優さん達の呼吸を盗み続けることで、きっと皆さんらしい本当の殺陣が完成することでしょう!


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間合い感覚


梅雨時の憂鬱

梅雨は嫌ですね〜、じめじめして。こんな時節は、昔傷めた膝が疼いて大変なんですわ、って、なんか「じじむさい」話題になりそうな予感・・・(笑)。それはさておき、梅雨時は雨が多いですね(当たり前田のスープレックスですね)。そして雨の時は皆さん傘を差しますよね(当たり山田のカレーうどんですね)。その傘の「扱い」が、最近の皆さんは大変「お下手」でらっしゃる。それを見るに付けて、不肖わたくし、ガックシ来てしまうのです。
先ず一番ガックシ来てしまうのは、傘を差した人同士が狭い歩道ですれ違う時です。昔の人はこの様な時、お互いの傘をすれ違う相手に対して反対側に少し傾けたものです。そうすれば互いの傘の端が触れあうこともなく、よって、傘の端同士がぶつかって水しぶきが上がることも無かったのです。ところが、今の人達はどんな狭い道ですれ違おうと、そうすれば当然傘の端と端がぶつかるであろうことが分かっていたとしても(分かんないのかな?)、ガンとして自分の傘の角度を保ったまま直進してくるのです。結果は目に見えています。あっちでバシャ、こっちでバシャ!ぶつかった者同士は互いに「相手の方が悪い」とばかりに睨み合っている・・・。ハ〜〜、ガックシ。

衰えた「間合い感覚

僕は殺陣師という仕事柄、特に「間合い」に関しては、病的な程(笑)敏感です。ですから、関係ない人の「間合いの悪さ」も気になって気になってしょうがないのです。「そりゃ、あんた、確かに病気だから病院行った方がいいよっ!」というご忠告にはちょっとドキドキしながら耳も貸しますが、「あんたは殺陣師だからそんな細かいことを言うんだよ!俺たちは殺陣なんかやってないから関係ねえよ!!」というご意見には承伏しかねるものがあるのです。だって、僕が東京に出たての十九から二十代前半の頃(約二十年前)、池袋の雑踏を歩いていたって、お年寄りだろうが若者だろうが、みんなこの「傘を互いに外側に外す」ことはやっていたと記憶しているからです。それが今はどうだろう・・。たま〜〜に、傘を外側に外してくれる人とすれ違うと、「うわっ!めずらしい!」と感動してしまうくらいに、誰もやらなくなってしまったのです。
僕は、若い君たちを責めているわけでは決してありません。だって、一番これ(傘の外し)をやっていないのは、僕を含めた君たちの「お父さん世代」だからです。それどころか、駅の構内の階段なんかで、畳んだ傘の先端を真後ろに振りながら平気で駆け上がって行くのも、僕らの世代が一番多いように思えます。言うまでもありませんが、段差のある所で傘の先端を真後ろに振ったら、下から続いて登ってくる人の丁度顔面の高さになることぐらい、皆さんになら想像できますよね。・・いやいや、僕は同世代の批判をしたいわけでも無いんです。ただ、日本人が、日本人の「間合い感覚」が、退化しているように思えてならないだけなのです。だって、先に述べた「傘を互いに外側に外す」という行為には、「傘かしげ」という美しい響きの「名前」が付いていて、田舎だろうが都会だろうが、み〜んな当たり前のようにやっていたんですから。

傘かしげ


君達が居る!

ちょっと嫌な物言いですが、「階段の下から登ってくる人の顔面に、傘の先を突き刺しそうなのに気付かない」鈍さと、「鉄パイプで人を散々殴っておきながら<死ぬとは思っていなかった>と言えちゃう」鈍さは、ほんの紙一重のような気がしてならないのです。だから、殺陣を志す若い君たちには、僕が口が酸っぱくなるまで言い続けたいと思います。

「日本人はとても繊細な民族だった」と。そして、「繊細で力強い民族だった」と。

現代において「繊細」と言う言葉は、ある意味、「弱さ」を含んだ意味合いを持っていると思います。が、それはとんでもない誤解です。 世界のトップ・プロ・スポーツ選手の中で、繊細で無い人間なんか一人もいません。 イチロー然り! 中田然り!! です。皆、「繊細で力強く」かつ「大胆」ではないですか! ここが大事なところなのです。「大胆で力強い」選手は、それこそ「掃いて捨てる程」存在するのですが、その中から抜きん出て、あまつさえトップを取る為には、絶対に「繊細さ」が必要なのです。 殺陣だってもちろん例外ではありません。「ただただ乱暴に振り回される刀」を見せられたって、誰が感動の涙を流すでしょうか?
君達なら未だ間に合うはずです!「繊細で力強く、大胆な殺陣」を演じるために、日々を、どうか繊細に生きてください。それが「弱々しく生きろ」という意味ではないことは、もうお分かりですね。さしあたって、この梅雨の季節を利用して「間合いの稽古」をしましょう! 傘を差して人とすれ違う時に、傘の端がその相手の傘に触れたら自分の「負け」です!殺陣で例えるなら「共演者に切っ先を当ててしまった」のです。このように自分の傘を「木刀」に見立てて、人知れず「間合い感覚」を磨き続けるのです。そうすれば、自ずと君達の殺陣も、より「繊細」なものに変化してくるでしょう。


・・やっぱり「じじむさい」話になってしまいましたね(笑)。
早く、「カラッ」と晴れ渡った青空を拝みたいものです。

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上達の壁


皆さんは殺陣が大好きで、殺陣が上手くなりたくて玄舟塾に入会された訳ですが、現在その気持ちはどのように変わっているのでしょうか?「そんなことは決まっている!前よりもっと殺陣が好きになって、前よりもっともっと上手くなりたいと思っている!!」というあなた。素晴らしい!これからもその調子で精進を続けてください。「殺陣って思っていたほど面白くないし、もう練習も面倒くさくなってきた。」というあなた。どうやら「上達の壁」に当たってしまったようですね。

上達の壁とは?

何かを身に付けようと思うとき、それが他人からの押し付けでない限りは、人は間違いなく「目標」を立てます。車の運転ならば「先ず自動車免許を取って、それから景色の良い田舎まで遠出をしたい。」などというものです。殺陣では「舞台やテレビのあの俳優さんのようにバッタバッタと敵を斬り伏せてみたい」といったところでしょうか?ところが現実にそれらの種目(車の運転、殺陣)に取り組んでみると、最初の目標からは掛け離れた自分に否応なく気付かされるはずです。自動車教習所で縦列駐車が上手くできずにいつも教官に叱られる、移動稽古のときに出す足を間違えてしまっていつもみんなに笑われてしまう、といった具合にです。最初から上手くいくわけがないと頭では分かっていても、どうにも気持ちは面白くない、最初に立てた目標が何だか宇宙の果ての様に遠く感じてしまう、これが「上達の壁に当たってしまった」状態なのです。つまり、目標と現実の自分との差に茫然としてしまい、「やる気」が失せてしまっている状態です。

対処法

それではどうやったらこの「上達の壁」を乗り越えることができるでしょうか?一言で言ってしまえば「稽古あるのみ!」なのですが、それではあまりに不親切ですから、私の経験からそのコツを一つ二つお教えしましょう。先ず一つ目は中継点となる「中間目標」を細かく設定することです。登山に例えるならば、最終目標が頂上だとして、いきなりポンと頂上に立てるわけがないのは常識ですね(ヘリコプターで連れていってもらえれば別ですが)。頂上に至るまでにはいくつもの中継点があり(それは休憩所だったり、山小屋だったりしますが)、その中継点を通過しなければ頂上にたどり着くことはできないのです。ならば上達にもその中継点が存在するはずで、それは中級や上級に昇級するということもそうですし、もっと細かく分けていけば「あの先輩のようになりたい」というものから「袈裟斬りが上手くできるようになりたい」といったもののようにいくらでも細かく設定が可能なものなのです。そしてそれは、決して他人と比較するべきものではなく、たとえ「自己満足」と言われようとも「自分自身を基準とした」ものでなくてはいけません。なにしろ、あなたが殺陣を学んでいるのは、あなた自身がそう望んだからに違いないからです。上達が上手い(確実な)人というのは、実はこの「中間目標」の設定が細かくでき、しかも他人が自分をどう見ているかということに(実際は気付いていても)左右されない人のことをいうのです。

最後は意志力

しかし、いくら中間目標を細かく設定しても、それを一つずつ達成していくのは実は大変骨の折れる仕事でして、結局は「飽きて」しまって殺陣自体をあきらめてしまう人が大半なのです。やはり重要なのは、中間目標に向けて自分自身を運んでくれる、他でもないあなたの「意志力」なのです。「な〜んだ!結局は根性論か!?」とお嘆きのあなた、有り体に(ありのままに)言ってしまえば「その通り!」です(笑)。どんなにマニュアルが発達した時代でも「努力・忍耐」なしには、そのマニュアルを身に付けることなど不可能なのです(教える側にはマニュアルをより分かり易く合理的に作成する義務が厳然として存在しますが)。同じ時期に殺陣を始めて、ある人はすぐにあきらめてしまい、ある人は二年も三年も稽古を続けて少しずつでも上達できている、ということの違いは(経済的な問題や個人の事情もあるでしょうが)「意志力=根性」の違いであることが多いのです。

意志力を支えるのは「あこがれ」

では、その意志力に個人差があるのはどうしてでしょう?それは最初にお話した、自分が殺陣を習ってどうなりたいかという「目標」をどれだけ強く望んでいるか、別の言い方をすれば「あこがれている」かということに各個人で差があるからです。「もう、本当に、どうしてもあの俳優さんのようになりたい!」という強い「あこがれ」があれば、ちょっとやそっとの困難に挫けている暇などないはずですし、ましてや人の目を気にしている余裕などはなおさらです。かくいう私も、こんなことを告白するのは大変恥ずかしいのですが、昔の侍達、例えば宮本武蔵や坂本龍馬みたいになりたいと心の底から望んでいるのです。彼らに「あこがれ」ているのです。ですから、形の上では皆さんの先生などをしてはいますが、気持ちの上では全くの初心者で、ヨボヨボのおじいちゃんになっても彼らに近づくための努力だけは続けたいと願う、一生徒に過ぎないと思っています。強い「あこがれ」を持つということは、習い事の上達に限らず、人生の指針すらも与えてくれるものなのです。ですから、皆さんも殺陣の稽古に行き詰まったなら、先ず自分が最初に抱いていた殺陣への「あこがれ」を思い出してみてください。きっと心の底から「やる気」が溢れ出してくることと思います。


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場に入る


皆さんは「場に入る」という言葉をご存じでしょうか?今風の言葉に置き換えるなら、「気持ちを切り替える」とか「スイッチを入れる」ということになるでしょう。要するに「その場に相応しいように心と身体を切り替える」ということなのです。そして、「その場で起こっている一つ一つの細かな事象に心と身体を総動員して対応する」という「心と身体の有り様」も、この言葉には含まれていると思います。今風の言葉で言うならば「空気読みまくり」というところでしょうか(笑)。

「場に入る」ことの重要性

皆さんも経験があるかと思いますが、「場に入れていない」時というのは何をやっても効果が上がりません。俗に言う「上の空」という状態です。仕事や勉強なら「なんか今日はいまいちノリが悪かったなぁ」位で済むでしょうが、これが昔の侍達の決闘だったとしたらどうでしょう?「闘いに相応しい心と身体に切り替えられない」ならば、待つのは「死」あるのみだったはずです。殺陣においても同じ事が言えます。まさか殺陣では殺されることはありませんが、「場に入れない者」が一人でもチームの中にいると、そのチームのパフォーマンス全体が低いものになってしまいます。それでも、道場での稽古だけなら、ストレッチをして、基本の素振りをして、徐々に場に入っていける余裕があるのですが、プロの撮影現場などではそうはいきません。現場に到着して直ぐに衣装を着てメイクをし、ストレッチすらまともにする時間も与えられずに撮影が始まります。撮影中は監督から手短な説明があった後は、ほんの1〜2回のリハーサルで本番が行われます(現場によるでしょうが)。もう、髪の先から足の爪の先まで、どっぷりと撮影空間に浸りきって、監督の要求する些細なニュアンスを汲み取らなければ、何回もNGを出して周りのスタッフさんや共演者に迷惑をかけることになってしまうのです。

「場に入る」ことの巧拙

皆さんを観察していますと、この「場に入る」ことが上手い人と下手な人がいるのに気付かされます。上手い人は、さっさと授業の「場」に入って、その授業の中身の100パーセントを身に付けて帰っていきますが、下手な人は、同じ授業でも終わり近くになって、ようやく、しかもほんの少しだけ「場」に入れます。そういう人は、もったいないことに、授業の20パーセント位の中身しか持って帰ることが出来ません。そうなのです。「場に入る」ことにも上手い下手があるのです。もっと言えば、「場に入る」ことも訓練して身に付けなければいけない「技術」の一つなのです。

伝統的な訓練

武道では伝統的に、この「場に入る」こと自体を強化するトレーニングを行ってきました。例えば、「押忍!」とか「お願いします!」という挨拶を普通の人が見たらびっくりする位の大声でし合ったり、「掛かり稽古」といって、負かされても負かされても相手に掛かって行くという稽古法を発明したりしています(もちろん「掛かり稽古」には、それ以外の学習効果もありますが)。玄舟塾では、そのような激しい稽古法は採っていませんが、別の方法で「場に入る」ことを強化しています。それは「礼」です。道場の出入りや稽古の初めと終わりに何度も何度も礼をさせるのは、このように「場に入る」トレーニングを皆さんに課しているのです。玄舟塾に取材に来られた方達は、口を揃えて「皆さん礼儀正しいですねぇ」と言って下さいますが、単なる「羊の群れ」になってもらっては困るのです。侍の心を継ぐ者として、礼をして頭を上げたとたんに「狼の目」になっているようでなければ、皆さんに礼を課している意味がないのです。(もちろん「心の中の狼(暴力)を制する」という意味も「礼」にはあります。日本人の生活様式とは、このように何重の意味を持つものなのです。)

場に入ろう!

さあ、これから道場では「場に入る」ことを念頭に置いて稽古をしてください。もちろん日常の仕事や勉強の「場」においてもです。殺陣の稽古はいつどこででも出来るのですから。


参考文献

高岡英夫 「空手・合気・少林寺」 (恵雅堂出版)
高岡英夫 「スポーツ・武道のやさしい上達科学」 (恵雅堂出版)


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