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殺陣と武道


外国の方からの問い

最近、外国人の方の取材や見学を受ける機会が増えたのですが、その方達から決まって質問されることは「殺陣は武道か否か?」ということです。彼らの言い方をそのまま真似るならば「殺陣はサムライへの道か否か?」とも言えましょう。しかも、日本の方達からこのような質問を全くと言ってよいほど受けたことがないというのも面白い話です。おそらく、日本人特有の「曖昧さ」で理解できる「理由」がそこにはあるのでしょうが、私達だけが理解していればそれで良いといった態度では、世界に殺陣を広めることなど到底不可能ですから、ここは一つ、無い知恵を絞って考えてみたいと思います。私は研究者ではないため、学術的に耐えうる考察など到底出来ませんが、皆さんが外国の友人達と殺陣について語り合うときの「話の種」程度は提供できるよう努力してみます(汗)。


殺陣は武道なのか?


殺陣と武道との違い

先ずは殺陣と武道の共通点を挙げていきたいと思います。思いつくままに並べると・・

  1. 動作が「格闘動作(人を傷つける動作)」である

・・あれ、意外と思いつきませんでしたね。それでは、今度は相違点を挙げていきましょう。

  1. 間合い(殺陣は相手の受けやすい所に技を出す)
  2. 相手と呼吸を合わせる(ダンスの様に)
  3. 技を相手に直接当てない
  4. 自由な技の攻防がない(「組み手」がない)
  5. 感情の表現がある(「怒り」など)

いかがでしょう?あまり細かい点は無視して、殺陣や武道経験が無い方達にも理解していただけるものを選んでみました。

それでは、この相違点を一つずつ検証していきましょう。
a.は最後にとって置いて、先ず b.から見てみましょう。殺陣では「相手と呼吸を合わせる」ことが鉄則ですが、武道では「相手との呼吸を破る」ことが勝利への道と言えるでしょう。しかし、合気道やある種の中国武術では、基本理念として「相手と呼吸を合わせる」ことが重視されていますし、「呼吸を破る」ことを本分とする武道を修行している人でも、老年になるにしたがって技に円熟味が増し、「呼吸を合わせる」方向にシフトしていく例も多いようです。

次に c.ですが、「技を相手に直接当てない」武道は、実は意外と多く存在するのです。例えば「寸止め」と呼ばれる試合形式を取っているところではもちろん当てませんし、実際に当てるルールの試合をするところでも、基本の段階では当てないで練習をするのが普通です。これは学習効果を期待するもので、要するに初心の内からバンバン技を当てていては「正確な技が身に付かない」という理由からなのです。

続いて d.ですが。「組み手」が無い武道も、これまた多数存在します。合気道(一部を除く)や少林寺拳法(同じく一部を除く)などがその代表例ですが、この二つはそれぞれが目指す基本理念故に試合を禁止しています(当然、前述した学習効果の問題もあります)。また、「組み手」がある武道でも、初心の内は「約束組み手」といって、決められた攻防を、何回も、身に付くまで練習させるところが多いようです。つまり、いきなり自由に動き合っては、その武道の目指す基本原理を永遠に理解できないからなのです。

さらに e.を検証してみましょう。やはり殺陣は「芝居」の範疇に属しますから、「感情・気持ち」の表現抜きには語れません。それでは、武道では一切「無感情」で練習・試合をするのでしょうか?とんでもありません。本物の武道こそ、「感情・気持ち」の発露を重要視します。武道の場合は「気合い」と表現していますが、声を出す、出さないに関わらず、この「気合い」が伴わない技など技とは呼べないでしょう。しかし、さすがに殺陣で行われているような「やられた演技・やられた感情」は武道には無いだろうとお考えのお方はちょっと驚かれると思いますが、中国武術などでは「多人数の約束組み手=表演」として立派に存在するのです。

殺陣と武道は同じ?

ここまで検証を進めてきて分かってきたことと言えば、殺陣と武道にはほとんど相違が無いではないか?ということです。最後に一つ残った相違点 a.も、これこそは殺陣と武道を隔てる大いなる壁でありながら、実は意外と簡単に乗り越えられる壁なのです。要するに「相手に当てる間合い」を別に練習しさえすれば良いのです。その証拠に玄舟塾でも、中級以上には「護身術」として、通常の稽古とは別の時間を取り、「相手に当てる間合い」を練習しています。しかし、ここで大切なことは、「初心の内からは教えない」ということです。初心の内から二通りの間合いを教えては、生徒の頭の中で混乱が生じ、本当の殺陣の間合いを学べなくなってしまうからです。

殺陣は武芸

そろそろ核心に入りますが。では、いったい殺陣は「武道か否か?」という問いには「武道であって、そうではない何か」とお答えするしかなさそうです。では「そうではない何か」とは何か?と、問われれば、一概には言えませんが、ここでは「芸(術)」とお答えしておきましょう。実はこれ、外国人の方達が共通して持っていらっしゃる認識のようなのです。どうしてそう思うかといいますと、「殺陣は武道か否か?」と聞かれた後で、必ずと言って良いほど「武道ではなければ芸(術)なのか?」と聞かれるからです。
ですから前述の結論は、殺陣は「武道であって、芸でもある」と言い換えることができるでしょう。また、下の図のように表すこともできると思います。


殺陣は武道の領域と芸術の領域を行き来する


私としては、大変な努力をして(苦笑)ここまで論を進めてきたわけですが、結論が出てしまえば、なにか「当たり前」な感じがしてしまいますね。では、私達には「当たり前」でも、何故、外人さん達には「当たり前ではない」のでしょうか?それは、私の個人的な見解としまして、日本人は、古くから「武と芸を同一線上に見る」習慣があったからだと思います。かの宮本武蔵も「儒教家・仏教家〜能役者、これらは武士の道ではないけれども、見識を広く取るならば、通じないことはない(訳/筆者)」と言い、兵法(武道)を志す者の心得として「広く諸芸にふれること(訳/渡辺一郎)」とも言っています。武蔵はご存じの通り、その剣術の腕前と同じくらいに書画の腕にも長けた人でした。武蔵以外にも、武と芸に長けた侍達は数多く存在しましたから、それら先人達の残した業績をバックボーンに持つ(流行りの言葉で言えば「DNAに持つ」)我々日本人には、武と芸を峻別する思考は似合わないのです。

偶然にも、最近入会した六十代の男性会員が(この方は何十年にも渡って空手を修行して来られ、協会の審判員も長い間勤められた方ですが)、「殺陣は、まさに武芸だね!」と言っておられました。この言葉こそ、この考察を締めくくるに相応しい言葉だと思います。というわけで、これからは、外国の友人達にこう答えてあげましょう。殺陣は「武道であって芸でもある武芸なのだ」と。

武蔵の言葉を意訳するならば、「極めれば道は互いに通ずる」のです。私達は、心も新たに、この「武芸の道」を進みたいと思います。


参考文献
高岡英夫「光と闇/現代武道の言語・記号論序説」(恵雅堂出版)
高岡英夫「武道の科学科と格闘技の本質」(恵雅堂出版)


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